ゆめのあとさき




 兵部京介が脱走した、と聞いた時、不二子は不思議と落胆を覚えなかった。
 むしろ、どうして今までそれをしなかったのか、という疑問の方を大きく感じた。


 脱走不可能であるはずのESP対策も、兵部にはまったくの無効であったことを、早い段階で不二子は気がついていた。思い出したように時折、彼がふと不二子の前に現れるからである。

 
 彼はいつも不二子が眠りにつく直前に、前触れもなくふっと姿を見せた。
「やあ、久しぶり、不二子さん」
 暗くなった部屋に、からかうような笑みを含んだ声が響く。
 不二子がハッとして飛び起きると、暗闇にぼんやりと人影が浮かんでいた。
 声で兵部京介であるとすぐに知れた。それでなくとも、不二子の寝室に無断で出入り出来るのは彼しかいない。
何度目かの訪れから、不二子はもう驚かなくなっていた。
「あなたねぇ、こんな夜更けにレディーの寝室に無断で入り込むなんて、何を考えているのかしら」
 冗談ぽく言いながら、不二子は冷静に枕の下に手を入れた。そこにあった銃を握りつつ、立ち上がって部屋の電気のスイッチを入れる。
 電球がパッと明るくなると同時に、不二子は兵部に向かって銃を構えた――――つもりだったが、それよりも早く、銃は不二子の手を離れ兵部の手の内へと移動していた。兵部のサイコキネスによって奪われたのである。
「こんなぶっそうなモン頭の下にして寝たら、夢見が悪いんじゃないかな」
 兵部はクスクスとおかしそうに笑っている。
 夢見が悪いのはあなたのせいだわ――――とは言わず、不二子はすとんとベッドに腰を下ろした。これ以上、不二子が一人で足掻いたところで、兵部を捕まえることはままならない。闇雲に攻撃するよりは、彼の隙を狙う方が懸命だろう。不二子は、力ずくに出るつもりはないのだというスタンスを見せながら、一瞬の気も抜かずに兵部から目を離さなかった。
「何の用かしら」
「用がないと来ちゃだめ?」
 素知らぬ態度で言ってのけた兵部に、不二子は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「だめね。あなたのような犯罪者にうろつかれたくないのよ」
「じゃあ、たまには不二子さんが僕のところへ来てよ。時々は顔を見ないと寂しいじゃない」
 兵部は口元に皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。
 その口ぶりはどこまで本気かわからない。
 彼はもう昔とは違う。不二子さん不二子さんと無邪気に後を追い回していた小さい子供ではないし、果敢に仲間を守ろうとした無垢で正義感の強い少年でもない。
 史上最悪のエスパー犯罪者であり、世界に対する反乱者であり、不二子が最も憎むべき対象であるはずだった。
 それなのに不二子は、目の前にいる男にかつての面影を重ねては、己がひどく残忍なことをしている気分になるのだった。
「あなたの顔なんて見たくもないわ」
 声も姿も不二子の知っていた頃の少年のままであるくせに、まったく不二子の気持ちを裏切っていくのが許せなかった。
「あたくしの前から消えてちょうだい」
 不二子は怒鳴り散らしたい衝動を押し殺して、つとめて冷ややかに言った。
 兵部はまだにやにやと笑っている。
「ふん、僕だって、不二子さんなんか大嫌いだよ」
 そう言うと、兵部はくるりと背を向けた。パチン、と指を鳴らす音がして、部屋の照明が落ちる。暗くなった部屋に、彼の声がこだました。
「またね、不二子さん――――」
 不二子の頭に銃が落ちて来た。てっぺんに、ゴンっと命中する。
「痛っ……!」
 頭をさすりながら、不二子は銃を手にした。
 兵部に対する気持ちは、憎悪とも愛情とも知れぬ複雑なもので、自分の心がまるでわからなかった。考え続けるとショートを起こしそうで、不二子はさっさと布団をかぶって寝ることに決めた。




2008/8/23
この二人の複雑怪奇な機微を書くには、私はまったくの力不足であります。無念。

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